投薬口に立っていて、手が止まる瞬間がある。
「これで合っている」と頭では分かっている。それでも、もう一度棚に戻って確認してしまう。
この感覚に、覚えのある薬剤師は多いだろう。そして多くの場合、それは緊張が足りないからでも、経験が浅いからでもない。何が起きうるかを知っているからこそ、手が止まる。
薬剤師10年目。これは、8年目のときの話。
同じ作用の薬が何種類もあるなかで、2型糖尿病の患者さんの処方せんに、DPP-4阻害剤が2種類並んでいた。
処方医の意図は、効果不十分のため従来のDPP-4阻害剤にSGLT2阻害剤を追加する、というものだったのだろう。ところが、実際に処方せんに書かれていたのは、既存薬とは別のDPP-4阻害剤だった。
気づいたのは、最後の総合監査だった。
薬歴の画面に「同効薬」の警告が出ていた。薬歴を開くと、その患者さんのこれまでの経過が並んでいる。そして、棚から現物の薬を手に取った。
警告と、薬歴の経過と、手元の薬。その3つが重なったとき、これはおかしいと分かった。そのまま患者さんに渡すところだった。
私は監査の手を止め、疑義照会をした。処方医に意図を確認すると、SGLT2阻害剤が追加となり、前回の処方から追加で書かれていたDPP-4阻害剤は削除になった。
警告が出たのは、この最後の監査だった。それより前の段階では、この重複は拾えていなかった。
誰が悪いという話ではない。同じ作用の薬が並んでいると、人は見落とす。だから最後の監査が要る。
「怖い」と感じるのは、仕事が雑だからではない
「ミスが怖い」と口にする人は、自分を責めすぎていることが多い。
ただ、現場を見渡すと少し違う景色が見える。恐怖を感じている人のほうが、確認の手は丁寧になる。「もう大丈夫だろう」と思えた人のほうが、むしろ危ない。
これは、「怖さ」が職場の安全を支える側面を持っているということだろう。
「怖い」の中身は、8年目と今とで、ほとんど変わっていない。
一貫して怖いのは、忙しすぎて、その忙しさに飲み込まれ、確認がおろそかになることだ。そして、今も同じ。10年経っても、この怖さは消えていない。
忙しいからといって、確認を怠っていい理由にはならない。
「遅い」と言われるほうがつらい日もある。だが、それと、ミスをして患者さんに何か起きることとでは、重さが違う。ここを混同しないようにしている。
現場で行われている備えの一覧
特別なことではない。毎日、地味に繰り返されていること。
警告が出たら、薬歴と現物まで見る
画面の警告は、それだけでは意味を持たない。警告を入り口にして、薬歴を開いて経過を読み、棚から現物を手に取る。ここまでやって、はじめて重複に気づける。
3つが重なったときに、判断が変わる。警告だけで終わらせないことが、この手順の要点になる。
指差呼称と、一文字監査
声に出して、指で触れて、目で見る。この3つを同じ動作の中で行う。頭の中で読み上げるだけでは、思い込みは消えない。
指差し確認と合わせて、一文字ずつ照合する「一文字監査」を続けている。似ている名前ほど、最後の1文字に差がある。
監査は、数字から入る
順番にも決まりがある。規格やmgなどの数字を先に見て、そのあとに薬剤名を確認する。この順番のほうが、ミスは少ないという実感がある。
名前から先に見てしまうと、似た名前の薬に引っ張られて、数字の違いを見落とす。手が速い日ほど、この順番を守るようにしている。
疑義照会の言い方
身構えすぎないこと。相手が処方医だからといって、弱腰になる必要はない。気づいたことは、きちんと堂々と伝える。
ただし、だらだら話さない。伝える内容は、先にまとめておく。誰の、いつ、どの処方せんで、何が、なぜおかしいのか。5W1Hで端的に言える状態にしてから照会する。
堂々としていることと、整理されていることは、別の話だと思う。
自分のメモ帳に、何でも書く
手元に自分のメモ帳を1冊置いている。業務中に気づいたことは、何でもそこに書く。
これは、記録としてだけのものではない。何を、いつ、どう判断したか。書いておけば、あとで自分の身を守るものになる。証拠にもなる。
人の記憶は、自分に都合よく変わっていく。メモは変わらない。
薬歴を書き終えたら、もう一度処方せんを見る
退勤前というより、その患者さんの薬歴を書き終えたタイミングで、もう一度処方せんを見直す。
落ち着いた状態で見ると、意外とミスが見つかる。しかも当日なら、患者さんがまだ服用していない場合も多い。この一手間で、いちばん悪いケースを防げることがある。
念には念を押す。
それでも、眠れない夜がある
備えを全部やっても、消えない夜は来る。
眠れない夜があるのなら、それは心が弱いからではない。責任の重さを、正しく受け取っているからだろう。
その夜のことを、誰かに話せなくてもいい。ただ、同じ夜を過ごしている人が、全国に少なくないと知っておいてほしい。
それでも朝は来る。そして、また棚の前に立つ。それができる人は、自分で思っているよりずっと強い。
「慣れ」と「鈍感」は、別物
経験を重ねて、一番怖いのは鈍感になることだ。
慣れるのは、手が速くなること。鈍感になるのは、違和感が消えること。この2つは似ているようで、まったく違う。
だから、新人になった気持ちで見直す時間を、わざと作っている。ヒヤリ・ハットの事例集や、薬局にある参考書を開く。読むためではなく、確認の目を戻すためだ。
昔からあって、使い慣れた薬ほど危ない。「もう知っている」と思っている薬だからこそ、警告が出ていることに気づかない。新しい情報に置き換わっていることもある。
使い慣れた薬ほど、初めて見るつもりで確認する。10年目でも、これを忘れないようにしている。
それでも限界なら、環境を見直すという選択肢
備えを増やしても、追いつかない日がある。
人が足りない。教える側も回っていない。疑義照会すらままならない。そういう日が続いたとき、「自分の心が弱い」と結論づける必要はない。環境の問題を、自分の問題として処理しないことだ。
全国の薬局から寄せられたヒヤリ・ハット事例は、厚生労働省の補助事業として収集・分析され、公開されている。一人で抱えている「あの瞬間」は、全国の同じ立場の人が同じように経験している、という現場感がある。
備えを増やすことと、環境を変えることは、同じ目的に向かう別の道だ。どちらも、ミスを減らし、患者さんを守るために選ぶ手段になる。
環境を変えることは、逃げではない。
「今の職場が合わない」と気づくことは、ミスを減らすための手段のひとつ。
転職を考え始めた人が最初に困るのは、「何から見ればいいのか分からない」ことだと聞く。希望条件を書き出して、同じ条件の人がどこで働いているかを見る。それだけで、次の一手は見えてくる。次の職場を決めなくていい。まず、自分の条件を書き出すだけでいい。
まずは無料登録してみる明日、自分の手で確かめてみること
今日の帰り、棚を一度だけ見る。それだけでいい。
誰かを説得する必要も、強い意志もいらない。自分の手順を1つだけ選んで、明日も同じ順番でやってみる。
「怖いまま、丁寧にやる」。現場で長く続いているのは、たぶんこの姿勢なのだと思う。
出典
- 同種同効薬の重複処方に関するヒヤリ・ハット(薬局ヒヤリ・ハット事例収集・分析事業/公益財団法人 日本医療機能評価機構)https://www.yakkyoku-hiyari.jcqhc.or.jp/pdf/year_report_2013_T006.pdf
- 共有すべき事例(薬局ヒヤリ・ハット事例収集・分析事業/公益財団法人 日本医療機能評価機構)https://www.yakkyoku-hiyari.jcqhc.or.jp/contents/sharing_case/index.html
- 薬局ヒヤリ・ハット事例収集・分析事業について(公益社団法人 日本薬剤師会)https://www.nichiyaku.or.jp/yakuzaishi/activities/hiyari-hat
- 薬剤師の離職率・主な退職理由(マイナビ薬剤師)https://pharma.mynavi.jp/knowhow/preparation/turnover-rate/


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